8.
薄暗闇の中、ヨーダはカナタと廃教会で別れた。
本当は無理にでも手を引いて連れて帰りたかった。
けれど、無理に連れて帰ったとして、はたして自分にカナタを守ることはできるのだろうか?
カナタが何に怯えているかもわからず、まして今の自分は人を守れるほど強くもないだろう。
結局、自分はいつだって戦おうとせず逃げていたのだから。この蒼い瞳にさえ。
ヨーダは考えた。一体、正体不明の存在とどう戦えばいいのか。
自分の知っている情報は少ない。カナタは風使いで、母親はエル。キュリカで大切に育てられているといわれているが、実際は傷とあざだらけ。歌うのが好きで、廃教会で隠れて歌っている。
キュリカが嫌で、逃げているのかな。キュリカにカナタを虐待してる人物がいるのでは。
キュリカの内部のことは、街の人間はほとんど知らない。
ただ、カナタの他に、この街を統べる”七人の主”と呼ばれるものたちが集まって住んでいるということだけは確かだった。
帰ったらキュリカのことをコルトに聞いてみようかと、ヨーダがカルペディエムの前まで来た時だった。
店の中から、女の怒鳴り声が聞こえてきた。
ヨーダがそっとドアを開くと、中には中年の女と、コルト、そして廃教会で怪我をしたあの小さな少年がレジ前に立っていた。
「大体、コルトさん、あんたがエリファスをマーリンちゃんと結婚させたのが間違いだったんだよ! ただでさえ薄気味悪い真実の瞳とやらを持つ人間が、一度この街からいなくなったと思ったのに、子供なんて産ませるべきじゃなかったんだ!」
中年の女はヨーダに気づかず、まくし立てるようにコルトに向かって怒鳴っている。
先に小さな少年がヨーダに気づき、ひっ、と声を上げた。
中年の女は小さな少年の母親だろうか。自分のスカートを引っ張る息子を見て、それからヨーダに気づきこちらを睨みつける。
「あんたがうちの子とこの子の友達を廃教会に呼び出して、金を巻き上げようとその目で脅した挙句、階段から突き落として怪我をさせたっていうじゃないか! 一体どういうつもりだい!」
母親がヨーダに向かってそう怒鳴ると、コルトがため息交じりで口を開いた。
「うちの孫が呼び出したわけじゃない。昨日も今日も、子供らが幽霊退治に行くと自分たちからあの廃教会に行ったんだ。コーネルさん、うちの孫の話も聞かずに、一方的に話をされては困る」
「うちの子が嘘を言ってるというのかい! この子には普段から廃教会には危ないから行くなと言ってるんだ! それに見ておくれ! 現にうちの子は額を切ってるんだ! 真実の瞳だかなんだか知らないけどね、人を脅すような真似をして、この卑怯者! こんな子供、ふらふら表に出さないで閉じ込めておけばいいんだ!」
何が何だかわからなかった。金を巻き上げようとして脅した? 突き落として怪我をさせた? どうしてそんな話になっているのか。ヨーダはどういうことかと、息子の方を見た。
息子の方は慌ててコーネルの影に隠れて、ヨーダから視線を外した。
なんでそんな嘘をつくのかと思うのと同時に、胸の中で急速に熱が冷めていくのをヨーダは感じていた。思い込みや先入観を持って話す人間とは、何を話しても無駄だろう。
「いいのかヨーダ。黙っていれば、嘘も真実になってしまうぞ」
コルトがコーネルを見据えたまま、ヨーダに言った。
ここで何かを言ったところで、一体何が変わるというのか。
――かえたくても、かえられないことも、ある。
ふと、カナタが言った言葉を思い出した。
そして思った。変えられないことを変えたいから、自分はカナタを助けたいから、そのために一歩踏み出したいと。
あいつに変えられないことなんてないって、伝えたい。
そして自分も変わりたい。
「俺、呼び出してないし、金を脅し取ろうともしてない。階段から突き落としたり、してない」
ヨーダははっきりとコーネルに言った。
コーネルは顔を真っ赤にさせ、こぶしを握り締めわなわなと震えている。
「じゃあうちの子が嘘をついてるというのかい!」
「……嘘かどうか、それこそ真実の瞳で確かめればいいんじゃない?」
突然背後から声がして、ヨーダは振り向いた。
すると店のドアを開けて、灰色の髪の女が入って来た。エルだ。
エルは店の中へ入ると、ヨーダの横に立って言った。
「コーネルさんの声、店の外まで聞こえてましたよ。どちらが嘘をついているか、そんなの簡単じゃない。あなたの息子さんが、ヨーダ君の目を見ればいい。息子さんが本当のことを言っているのであれば、何も起きないんだからいいでしょう?」
ねえ? とエルはコーネルの息子を見た。美しく弧を描いた唇に反して、その目は笑ってはいなかった。コーネルの息子は震えあがり、母親を置いて逃げるように店から飛び出していった。
それを追いかけて店から出ていくコーネルは、ドアを閉める直前に「この女狐!」とエルに向かって叫んだ。
「なにあれ。欲求不満じゃないの?」
エルはレジ横のカウンター席に座り、ヨーダを手招きした。やれやれと、コルトが舌を出しながら店の奥へ入っていく。
ヨーダがカウンター席に歩み寄ると、エルはヨーダを勢いよく抱きしめた。
「えらい! ちゃんと自分の意見が言えたわね。私がほめてあげる!」
エルはそう言いながら、ヨーダの頭をぐりぐりと撫でた。あんまり乱暴に撫でまわすので、フードがずれて顔が出てしまった。
慌ててフードをかぶりなおそうとするヨーダの手を掴み、エルは言う。
「こんなに綺麗な蒼い瞳を、隠すのはもったいないわ。あなたは何も悪くないのよ。悪いのは、欠点をみ認めず、自分と向き合おうとしない人たちなのよ」
エルに抱きしめられたヨーダは、母マーリンのことを思い出していた。マーリンはいつだってこんな風にヨーダを抱きしめてくれた。母のぬくもりを思い出して、鼻の奥がつんと傷んだ。
「……でも、誰だって、嘘ついたり、知られたくないことだってあるよ」
「そうね。でもあなたの存在は、決して悪なんかじゃないわ。自分と向き合って、やり直すための希望。私はそう思ってる」
エルがヨーダを抱きしめていると、マグカップ三つ持ってコルトが戻って来た。ヨーダはなんだか気恥ずかしくなりエルを自分から引き離した。
「エルよ、何か用があってうちにきたんじゃろ? どうしたね? まさかうちの素直じゃない孫を口説きに来たわけでもなかろうに」
うふふ、とエルは両手で口元を隠しながら笑った。
「うちの子は、抱きしめてあげたくてもできないから、つい。あのね、今日は良いことがあったの。さっきカナタがキュリカに行く前にうちに寄ったんだけど、手を洗う回数がいつもより少なかったの」
「ほう、何か心境の変化があったのかのう」
コルトがココアを入れながら、エルと同じように嬉しそうに言った。
「手を洗う回数……?」
ヨーダはエルにマグカップを渡しながら、問う。
「そう。いつも、私がもうやめなさいって言うまで手を何度も石鹸で洗うの。おかげで両手はいつもがさがさで、ひび切れしてる。理由を聞いても言わないのよ」
でもね、とエルは続ける。
「腕と顔の青あざが消えてたの。私、それが気になって。コルトさんが治してくれたの?」
「いや、わしは何もしとらんぞ」
コルトの眉間にしわが寄った。えっ、じゃあ誰が……とエルも心配そうな顔をしてコルトを見た。
そうして沈黙が流れ、二人が一緒にヨーダを見た。
「ヨーダ、おまえ、まさか」
コルトが眉間にしわを寄せたままヨーダを見つめ、それからエルにすまない、と謝った。
ヨーダは何故コルトがエルに謝ったのかわからなかった。あれだけの傷を治すのが、いけないこととは思わないからだ。
エルは、いいんです。とコルトに言い、ヨーダにありがとうと微笑んだ。
「ヨーダ、おまえ、どこでカナと会ったんだ?」
その問いには、ヨーダは答えなかった。あの場所はカナタにとって大事な場所で、自分にとってもそれは同じだし、何よりあの場所にいることがわかったら、カナタは誰かにまた虐待されると思ったからだ。
困惑するコルトに、エルは首を横に振った。そうしてマグカップに口をつけると、ほっとしたようにヨーダに微笑んだ。
「本当にありがとうヨーダ君。あのね、難しいかもしれないけど、あの子とお友達になってあげてほしいの。話を聞いてあげてほしいの。私にはそれができないから」
「どうして……」
どうして、自分の子供を抱きしめたり、話を聞いてあげたりできないというのか。それをエルに問うと、エルは苦笑いする。
「色々事情があるのよ。さて、そろそろ帰るわ。ありがとう、二人とも」
エルが立ち上がり、店を後にしようとしたとき、ヨーダはとっさに声が出た。
「ごめん」
「え?」
最初に、カナタを虐待しているのはエルじゃないかと疑ってしまったことを、ヨーダは後悔していた。
その謝罪の言葉が、とっさに口をついて出た。
エルは不思議そうにヨーダを見ていた。それから理由は聞かずに、エルはにっこり笑って店を出た。
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