7.
陽が沈み始めるまで、ヨーダとカナタは廃教会で過ごした。相変わらずカナタは自分のことをあまり話したがらなかったが、音楽の話題を振ると、自身が好きな歌手の話を少しだけヨーダに聞かせてくれた。
「カルティア出身のアンナ・ティガルトっていうシンガーソングライターがすき。ピアノもギターも上手で、歌声はライオンみたいなの。噛みつくように歌うんだ。すごく、かっこいい」
アンナ・ティガルトのことを、ヨーダは全く知らなかった。カルティアというのは、ここから海を渡った西の大陸にあるマキアという国の大都市だ。貿易が盛んな都市だが、ベーグルノーズとは交流がほとんどない。そもそも世界から孤立したこの街は、外界で流行っている音楽などめったに入ってこないというのに、カナタはどうやってその歌手のことを知ったのだろう。
そのことを問うと、カナタは口を噤んでしまった。ああ、ごめん。とヨーダは深く問うのをやめた。
「ぼく、アコースティックギターの響きが、すごくすきなの。じぶんでも弾いてみたい。でも、この街には楽器屋さんがないでしょう? 魔法で出した鍵盤の音色をギターの音色に変えることはできるけど、やっぱりなんか、ちがうんだ」
「ギターは魔法で出せないのか?」
「じぶんで、みたことないと、だめなの。じっさいに、さわらないと」
「ふーん。俺は治癒能力しか使えないからよくわかんないけど、普通魔法使いはカルミナがないと音楽奏でられないと思ってた。俺鍵盤出せないし」
ヨーダが不思議そうに首を傾げると、カナタも不思議そうに首を傾げた。何でお前まで首を傾げるんだとヨーダは笑った。
カルミナというのは、この世界の魔法使いが使う魔導書だ。強力な魔法を使うときや、自分の属性と違う魔法を使うときに必要になる。例えば風使いが水属性の魔法を使いたいときは、水使いと契約して彼らの楽譜使用の許可をもらう必要がある。そもそも魔法使いたちがカルミナを使用し歌うのは、歌が呪文の代わりとなるからだ。
そのカルミナは十四歳にならないとカルミナ師から授かることはできない。父がカルミナ師だったヨーダは、母からその話を聞いていた。
「カルミナなくても音を奏でられるなんて、おまえ、案外天才なのかもな。風使いも、この世界におまえだけだし」
ぶんぶんと、カナタは首を横に振る。
「ぼくは、すごくないの。ぼくじしんは、なにもできないの。魔法はあたえられたもので、魔法をなくしたら、ぼくはなにもできないただのよわむし」
「なんでだよ。おまえ歌上手いし、それだけでも自慢していいだろ? さっきは俺の目を見たチビのこと、幻覚から引き戻してたじゃん。俺おまえの歌聴くと、色々な風景が見えるよ。それってすごいんじゃないの?」
「ぼくが歌っても、なにもかわらない……助けたくても助けられなかったり、かえたくても、かえられないこと、ある……」
カナタの細い声が、どんどんしぼんでいく。なんのことを言っているのかわからないが、寂し気にひざを抱えてうずくまるカナタを見ていると、ヨーダもなんだか寂しい気持ちになった。
変えたくても変わらないこと。たとえば自分だって、真実の瞳で人を傷つけ恐怖に陥れるという変えられない事実がある。でもだからと言ってこのまま逃げてていいものだろうか。自分はその事実に抗おうとしたことがあっただろうか。
「暗くなってきたな。おまえはまだここにいるの?」
カナタは小さく頷いた。ヨーダはまだカナタと一緒にいたいと思っていた。こんな風に誰かと会話をすることなんて久しぶりだったし、祖父や母以外で自分の存在を否定されなかったことも初めてだった。自分はこの世界に生きているんだと、当たり前のことをこの数時間で感じることが出来たことがとてもうれしい。
このままずっと、二人でいたかった。けれどカナタがヨーダにもう帰るようにと切り出してきた。
「ぼく、みつかっちゃいけないの。ここにぼくがいたこと、だれにもいわないで。それと、もうここにはこないで」
その声は震えていた。今にも泣きだしそうな声だった。一体カナタは何に怯えているのだろう。
「おまえ、何がそんなに怖いの? 誰が怖いの? 俺じゃあ、おまえのこと、助けられない?」
カナタは服の端を握り締めながら、言う。
「たすけられないこともあるし、かえられないこともある。さっき言ったとおり」
「ぼくをたすけるというのなら、ここにはもう来ないで」と、カナタは震える声でそう言った。
自分がここに来ることで、カナタが何かに怯えることになるのなら、もうここには来ない方がいいのかもしれない。けれど、そうすれば自分は何も変わらず、また街の幽霊みたいな存在に戻ることになる。
考えて、ヨーダは「わかった」と返事をした。
こんなに弱い今の自分が、何にに怯えているかもわからないカナタを救うことが出来るとは思えなかった。
けれど、とヨーダはカナタの腕を掴んだ。それから自分にカナタを引き寄せて、額と額を合わせた。
花形の水泡が立ち上る。大小の記号が円を描き、二人の周りを回転する。
しばらくすると水泡が蒸発するように消えた。ヨーダがカナタの長い前髪をすくいあげると、顔の青あざが消えている。
使い慣れていない治癒魔法を使いすぎたせいか、ほんの少しだけめまいがした。心配そうにカナタがヨーダの顔を覗き込む。
「今はこんなことしかできなくてごめん。俺、おまえの歌、好きなんだ。だからおまえが楽しく歌えるようにしたい」
カナタは何も答えなかった。けれどほんの少しだけ口の端を上げ、微笑んだように見えた。
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