4.
昨日の雨が残していった水たまりに、映る日差しがまぶしい。
ヨーダはいつもと同じように鳩に残したパンを与え、ぼんやりと昨日の出来事を思い出していた。
あの傷だらけの幽霊は、今日も廃教会で歌うのだろうか。
だとしたら、本当はもう一度聴きたかった。火花のような歌声が、昨日から耳に残って離れない。
胸の灯は、消えるどころか一層大きくなっている気がした。大きくなって、胸の奥を焦がす。歌を聴いてこんなに感情が揺らぐことなんて、今まで経験したことがなかった。
もう一度聴きたい。けれど、自分のことを知られたくはない。知ったらきっと、この街の人間のように自分の存在を消されてしまうに違いないから、それはできないと思った。
なら、もう教会には行かない方がいい。ヨーダは鳩にパンの最後のひとかけらをやると、フードを深くかぶり家の中に入ろうとした。
するとその背後に、コルトが紙袋を持って立っていた。
「おまえは、そんなに鳩が好きなのか。それともわしの焼いたパンが嫌いなのか。どちらにせよ、自分も食わねば大きくなれんと言っとるだろうに。ひょろひょろのがりがりになってしまうぞ」
コルトが紙袋を差し出す。ヨーダはそれを無視して家の中に入ろうとした。その時ふと、あの幽霊の姿が頭をよぎった。ひょろひょろのがりがり。あの幽霊がそうだった。
そこに、外から子供たちの声が聞こえてきた。そのうちの一人が言う。午後からもう一度教会に行って、みんなで幽霊退治をしよう! その内容を聞いて、ヨーダは驚いた。
「昨日本当に幽霊が出たらしい。昨日はみんなうちの店で怖い怖いと泣いていたのに、まったく、子供は、勇ましいのう」
コルトは白ひげを撫でつけながら、ほっほっほと笑った。笑い事じゃない。冗談だろ。ヨーダはコルトから紙袋をひったくるように取り上げ、そのまま家を飛び出した。あの幽霊、ひょろひょろのがりがりで、傷だらけで、すぐ転ぶ幽霊。子供といえど集団で攻撃されたら、ひとたまりもないだろうに。
ヨーダは急いで大通りを走り、廃教会へと向かった。丘を駆け上がると、昨日とは違う歌が風に乗って聴こえてきた。
火花とはまた違う、優しい歌声。ヨーダは廃教会の前で立ち止まり、その歌を聴きながら呼吸を整える。
優しい歌声に、ピアノの音が重なっている。教会の扉を開くと、礼拝堂の奥に幽霊はいた。
ぼさぼさ頭の幽霊の前には、ピアノの鍵盤だけが宙に浮く形でそこにあった。幽霊が鍵盤を叩くと、空中に光る音符と花びらが浮かび上がり、それが天井のステンドグラスに吸い込まれていく。
急いでいたはずなのに、ヨーダはその光景に目を奪われて、幽霊が一曲弾き終わるまで立ちつくしてしまった。
幽霊は一曲弾き終わると、顔を上げヨーダに気づいた様子だった。にゃっ! と小さく声を上げる。
「……えっ、えっ、どうして……? どうしているの?」
「えっと、その……」
ヨーダは何で自分がここに来たのかを思い出した。そうだ、街の子供たちが、幽霊退治をしに午後からここに来るのだ。
その説明をしようとしてヨーダが口を開いたその時、
ぐるるるる……。
と、猫が喉を鳴らすような音が礼拝堂に響いた。
「何? ここ、猫いるの?」
「い、いないよぅ」
幽霊はぶんぶんと首を振る。長い前髪から覗く頬が真っ赤だった。
「もしかして、おまえの腹の音じゃ……ないよな?」
ヨーダがそう言うと、幽霊はますます顔を赤くして首を横に振った。けれどそんな幽霊の気持ちもお構いなしに、幽霊のお腹からはぐるる、と音がしている。
ヨーダは笑いを堪えながら、そうだ、と持っていた紙袋を幽霊に渡そうとした。けれど幽霊はその紙袋を受け取らず、困ったように首を傾げ、ヨーダを見た。
「心配しなくても、毒とか入ってないし。素直に食べれば? 朝食食べてないんだろ? その感じだと」
「あの、あのね……かってに食べちゃうと、だめなの」
「はぁ? なんで? 朝食食べてないんだろ? っていうか、おまえいつも飯どうしてるんだよ?」
幽霊は何も答えずに俯いてしまった。見るからにやせっぽっちの幽霊。この幽霊、もしかすると親に虐待されているのではないかとヨーダは思った。
いや、でも、そもそもこの幽霊、親がいるのかどうかもわからない。
「……おまえさ、家、どこなの? まさかここに住んでるわけでもないだろ?」
俯いたまま身をこわばらせ、ぎゅっと両こぶしを握り締める幽霊に、ヨーダは静かに問うた。
けれど幽霊は首を横に振るだけだった。
「答えられないわけね。おまえ、誰かに虐待されてるんじゃないの? たとえば親に……」
「エルは、エルはそんなことしないよ!」
突然、大きな声で幽霊が言った。それからぽろぽろ涙をこぼし、その涙を傷だらけの腕でぬぐっている。腕には昨日見た傷とは別に、新しい蚯蚓腫れと青あざがあった。
「エルは、そんなこと、しないもん……しないもん」
「エル……?」
泣きじゃくる幽霊の口から出た、エルという名前。
この街にエルという名前の人物は、一人しかいない。
ヨーダはたびたび店にに来る灰色の髪の女を思い浮かべて、では、もしやこの子供は……と考えた。
いや、でもまさか、エルの子供は今、キュリカで大切に育てられているはずで……。
「悪かったよ……エルはそんなことしないんだな。わかった。これも無理に食べなくていいから。でもさ、ちょっとだけ、いいか?」
ヨーダは泣いている幽霊の手を掴み、その手を自分の額に当てた。すると二人の周辺に花びらの形をした水泡が上がり、幽霊の腕にいくつかの記号が走る。
しばらくして水泡が二人の周囲から消えると、幽霊の腕から青あざが消えた。幽霊は自分の腕とヨーダの顔を交互に見ている。
「あの、あのね、もしかして、まほう、つかえるの?」
今まで泣いていた幽霊が、すごいね、すごいね。と握りこぶしを上下させ、興奮気味にヨーダを見た。
「すごいのは、おまえも一緒だろ。さっき歌ってた時、ピアノの鍵盤から花形の水泡見えてたぞ。鍵盤浮いてたし、演奏終えたら消えたし、おまえも魔法使い。で、この街に魔法を使えるのは、治癒魔法を使ううちのじじいと、俺と、もうひとり。風使いだけ」
風使い。その言葉に、びくり、と幽霊が反応する。
「おまえ、エル・ゼルウィガーの子供じゃないのか? 風使いの。名前までは知らないけど」
幽霊はぶんぶん首を振り、口をぱくぱくさせている。明らかに動揺した様子を見て、間違いないのだろうなとヨーダは思った。でもどうして、大切に育てられているはずの風使いがこんなにぼろぼろで、こんな廃教会にいるのだろうか。
「……まぁ、いいや。そういえば思い出したんだけど、今日の午後ここに街の子供が来て、おまえのこと退治するって言ってたぞ。だから早くここから出た方がいいよ」
聞きたいことはたくさんある。けれど今は逃げる方が先だし、何よりまた幽霊が泣きだしたらと思うと可哀想で、ヨーダはあまり尋問するべきではないのだろうと思った。
ヨーダが逃げるように言っても、幽霊は動かない。ヨーダが幽霊の手を引くと、幽霊はまた首を振った。
「なんだよ、おまえみたいなひょろひょろ、早く逃げないとボコボコにされるぞ」
「……だめ、だめなの。ぼくは、ここにのこる」
大事な場所なの。幽霊がぽつりとつぶやいた。大事な場所? こんなボロボロの廃教会が?
「きみは、かえっていいよ。昨日みたいに、またおどろかせれば、みんなまたにげてかえるから、だいじょうぶ」
そう言って幽霊は足元に置いてあった白い布を被った。そうして礼拝堂から廊下に出て、ゆらゆらと危なっかしく二階へと続く階段を上り始める。どう考えても、大丈夫とは思えない。ヨーダはため息をついて幽霊の後を追った。
「……待てよ。その布、たしかもう一枚あったよな? 白いテーブルクロス」
ぐい、と幽霊のかぶっている白い布をヨーダが引っ張ると、幽霊は階段の踊り場で立ち止まった。
「……あるけど、なんで……?」
「決まってるだろ。俺も手伝う」
「なんで……?」
うーん、と考えるしぐさを見せてから、
「おまえの歌、もう一度聞きたいから」
ヨーダは幽霊にはっきりとそう言った。
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