record:03.灯と火花

 3.

 ヨーダはうずくまる幽霊の後頭部を見ながら、ああ、そうか。と思った。

 きっとこいつも、自分の瞳を見るのが怖いのだ。無条件に人を裁く、この蒼い瞳が。

「顔、上げろよ。別に、この目で何かしようってわけじゃない。今、見えないようにしてるし」

 そう言ってヨーダは、フードを深くかぶった。幽霊は頭を抱えたまま、

「……目? 目って何?」

 と、首を傾げた。それから、やや顔を上げてヨーダの顔を覗き込もうとする。

 幽霊の顔は、長い前髪によって隠れている。けれどわずかに見えたその頬には、大きな青あざがあった。

 それにしてもこいつ、真実の瞳のことを知らないのか? そんなやつ、この街にいるのかと、ヨーダは訝しんで幽霊を見た。

 そもそもこんな白髪の子供、街で見かけたこと、ない。

「あのね、その、それ、かえして……?」

 幽霊は、ヨーダが手に掴んでいる白い布を指さした。

 ヨーダは白い布を幽霊の前に差し出す。

 幽霊がそれを掴もうとすると、ぱっと自分の後ろに隠した。

「返すのは良いけど、おまえ、何者なの? 名前は?」

 答えたら、返してやるよ。と、ヨーダは幽霊にいくつか質問をした。名前、年齢、どこに住んでいるのか。普段なら他人のことなんてどうでもいいと思っている。けれど自分のことを知らない幽霊のことは、何故だか気になった。

「あの、あのね……だめなの。だれにも言っちゃいけないって。言ったら、怒られるんだ……何も、しゃべっちゃいけないし、見つかってもいけないのに……ああ! そうだ……どうしよう、見つかっちゃったよう……」

「誰に怒られるんだよ? なんで、名前くらいいいだろ別に」

「言えない……言ったら、怒られる……」

 そう答える幽霊の手は震えていた。かさかさに荒れた手を顔の前で合わせ、ぼさぼさの前髪の下でぽろぽろと涙をこぼしている。

 そんな幽霊の様子を見て、なんだか気の毒になり、ヨーダは白い布を幽霊に返した。

 意地悪をしたかったわけじゃない。ただ気になったのだ。自分と同じように顔を隠す、小さな幽霊のことが。

 白い布を受け取った幽霊は、慌ててそれをかぶると、ありがとう、とまた泣いた。その様子を見て、ヨーダの胸が不安でざわついた。

「別に。でもさ、おまえ、その腕の傷とか、頬のあざとか、どうしたわけ? 誰かにやられたの? その、怒るやつにやられたんじゃないの?」

 幽霊はぶんぶん首を振り、違うよ、違う、と小さな声で否定した。

「ころんだときに、けがしたの。よくころんじゃうの。さっきも、ころんだから」

 ぐす、と鼻をすすりながら、幽霊は涙声でヨーダにそう言った。そうして、もう帰って。と一階に続く階段を指さした。

 幽霊に指図されてむっとしたヨーダは、やだよ、とそっぽを向いた。ええ、と幽霊は困ったように頭を抱えた。

 意地悪したいわけじゃないのに、この幽霊、どうしてか逆らいたくなる。

 そうして壁の方を見たヨーダは、ふと黒くにじんだ文字のようなものをそこに見つけた。

「何も変わらず微笑むあなたの、心はそこにあるのに……?」

 この言葉、どこかで——……。

「……おまえさ、さっきここで、歌ってなかった?」

 そうだ。さっき丘の上で聴いた歌の歌詞だ。ヨーダは幽霊に問うた。幽霊はぶんぶん首を振る。

「そっか……そうだよな。さっきの歌声、火花みたいだった。おまえの声みたく、ひょろひょろしてないもんな」

「……ひばな?」

「そう、火花。なんかちょっと苛立ちか、何か……。静かに怒っている感じの」

「ほんとうに、そう思ったの?」

 ヨーダが頷くと、幽霊は両こぶしを握り締め、上下に振って堰を切ったようにしゃべり始めた。

「あのね、この壁に書いた人はね、怒ってたんだと思ったの。とても悲しいんだけど、泣くんじゃなくて、ううん、寂しいのに、泣けなかったのかなって。もう、泣いてもどうにもならなくて、小さく怒って、それが胸の奥で燃えて、今までのこと、ぜんぶ燃やすように、なかったことにしたくてね、ちょっとずつ燃やして、小さな火花が散るの」

 火花、見えたの? 幽霊はヨーダに顔を近づけ迫った。その勢いに戸惑いつつも、ヨーダは頷いた。

「もしかして、おまえ、壁に書いてある言葉を歌詞にして歌ってるのか? おまえが、歌ってたのか?」

 その言葉に、幽霊はハッとしてヨーダから離れた。今度は首を横に振らず、かぶっている白い布を引っ張って完全に顔を隠してしまった。

「照れてるのかなんなのか知らないけどさ、おまえすごいな。歌も上手いし、作曲もできるってことだろ? 何で隠すんだよ」

 幽霊は首を縦に振る。それから思い出したようにまた首を横に振った。その姿が可愛らしくて、ヨーダはなんだか可笑しくなった。何だよこいつ。街の人間より、何倍も面白い。

 でもそれは、きっと自分のことを知らないからだ。自分のことを知ったら、こいつもきっと自分の存在を消してしまうに違いない。

 ヨーダは幽霊の頭にそっと触れて、言った。

「俺がいたんじゃ、歌わないんだろ? もう帰るから、またさ、歌いなよ」

 そう言い残し、ヨーダは階段を下りた。幽霊は下りてこない。本当は幽霊のことをもっと知りたかった。けれど、急に不安になってしまった。

 嫌われてしまうことへの、不安。

 そんな不安を抱いたのは、いつぶりのことだろう。もう自分には感情なんてほとんど残されていないと思っていた。

 誰に何を言われても、言われなくても、何も感じない。そんな毎日を過ごしていた。

 そんな日々に、今日火花が散った。胸の奥に、わずかな灯が立つ。

 その灯が消えてしまうのを、恐れてしまった。

 教会の外は雨だった。

 ヨーダは胸の灯が消えないことを願いながら、再び聴こえ始めた歌声を背に家路へ走った。

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