record:03.それは夢か幻か

夜の喫茶店を始めてから、瞬くたびにこぼれ落ちそうな星の夜空を目にしてきた。

マーリンは店の看板を外に運びながら、毎晩必ず夜空を見上げては、いつもと変わらない静かな夜に感謝していた。

今日も無事、お店を開くことが出来ます。

みんなの喜ぶ顔が見られます。

お店が終わったら、パパとママと朝食をとって、後片付けをして、暖かい部屋で毛布に包まり夢を見る。

夢を見るのは好きだった。いつもの自分の時もあれば、全くの別人になれる時もあった。

別世界を歩く感覚も好きだ。現実世界の日常が退屈だと思ったことは無い。不変的だな、と思ったことはあるけれど、悪い方にさえ物事が進まなければ、今のままで十分幸せな気がしていたからだ。

多くを望むと、幸せは逃げるんだよと、母マリアがよく自分に言っていたのもあるかもしれない。

山積みの食器を片付けて、二階の自室に戻ると、マーリンは抱きかかえていた黒ウサギをベッドの上に下ろしパジャマに着替え始めた。

着替えながら壁時計を見やり、時刻が五時を回ったことを確認すると、編み込んでいた髪をほどきベッドの中へともぐりこんだ。

「いつもはお昼過ぎに起きるんだけれど、今日はお昼前に起きて、わたしも市場に行くの。市場は一ヶ月に一度しか開かれないから、すごく楽しみ。あなたのご飯も買ってきてあげるね」

マーリンは毛布の上で毛繕いをする黒ウサギを抱きかかえると、そのまま目を閉じた。一呼吸するたびに、深い眠りに、夢の世界へと落ちていく。

まぶたの裏の暗闇から、徐々に光の世界へ繋がっていく感覚が心地よかった。霞んだ世界の輪郭がはっきりと見え始めた頃、マーリンは微かに響く鈴の音を耳に捉えた。

鈴の音を頼りに、マーリンは一歩、また一歩と足を進めた。新緑の大地を踏みしめる感触、甘い花の香り、子どもたちの笑い声。どれもマーリンの好きなものだった。

そのまま鈴の音に導かれ、たどり着いたのは石造りの家が建ち並ぶ小さな村だった。走り回る子どもたちがマーリンの横を通り抜けていく。井戸の周りで談笑する女たち、薪を割る男、老婆の手を引く少女。皆、色鮮やかな衣装をまとい、綺麗な黒髪と蒼い瞳を持っていた。

穏やかな時の流れが、村の人々を包み込んでいる。皆、きっと幸せなことだろう。マーリンは鈴の音と人々の楽しそうな声が重なるのを聴きながら、自分もここの村人になってみたいと思った。でも、自分の髪は金色だし、瞳の色も茶色かった。マーリンは自分の髪の色や瞳の色に不満を持ったことはない。母親譲りの金の髪は褒められることが多かったし、瞳の色だって、古写真のセピア色に近い。どこか懐かしい感じが好きだ。

ただ、あの色鮮やかな衣装も、あの黒髪と蒼い瞳だから映えるのであって、きっと自分が来ても不似合いだろう。そう思うと、この村の人々のことが少しだけうらやましかった。

村の人々の姿を眺めていると、今度は背後から鈴の音が聞こえた。

マーリンはゆっくりと振り返る。するとそこには、白く長いローブをまとった人が立っていた。

フードを深くかぶったその人物は、マーリンの横を素通りすると、先ほどのマーリンのように村人を見つめているようだった。ローブの背中には金の鳥が刺繍されている。マーリンはなんとなくその人物の横に立ち、同じように村人を見つめた。

本当に幸せそう。マーリンが呟くと、ローブの人物は頷いた。こんな時間が、ずっと続けばいいのに。今度は直接ローブの人物に語りかけてみた。ローブの人物は頷くと、ゆっくりマーリンの方を向いて言った。

「君は、人の幸せを願うことが出来るんだね」

ローブの人物は、続ける。

「幸せというものは、穏やかな心を持つことであると私は考えている。たとえば、どんなに高価な物を得ようとも、それを持つ者の心が荒んでいれば、それは幸せではないし、きっと幸せなんて、訪れない」

そうね。マーリンが頷くと、ローブの人物は村人を指さした。

マーリンがそちらを見やると、村人の動きが止まっているのが見てとれた。

切り取られた絵画のようだわと、マーリンは思った。

「そして、長い年月をかけて育んだ心を、幸せを奪う権利など誰にも無い。けれどどうだろう。荒んだ心の持ち主には、それが当然の権利に見え、その考えを疑わない」

突然足下が揺れるのを感じたマーリンは、足下を見やり、ローブの人物を見た。

そして爆音が鳴り響く。瞬く間に村は炎に包まれた。

村の女たちの悲鳴が聞こえた。呆然と立ちすくむマーリンの横を、炎にまかれ逃げ惑う村人が通り過ぎる。それを目で追うマーリンの前で、次々と村人は倒れて消えた。

「どうして! どうしてこんなこと……ねえ、どうして!?

マーリンは声を震わせローブの人物を見た。一縷の風が吹く。

風に舞い上がるローブとともに、深くかぶったフードが落ちた。

絹糸のように白い髪と、紅い瞳が、マーリンを静かに見下ろしている。

紅い瞳から頬をつたい、ぽつり、ぽつりと地面を濡らす滴は、村を焼き尽くす炎に敵うはずもなく。

それでも目の前の青年の瞳から落ちるそれは、止むことはなかった。

送信中です

×

※コメントは最大500文字、5回まで送信できます

送信中です送信しました!

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です