「……で、このまめつぶウサギは、今我が家のテーブルの上で優雅に朝食を。というわけか」
マーリンの父でカルペディエムの店主であるコルトが、今朝郵便受けに乱暴に突っ込まれていたしわくちゃの新聞を丁寧に手で伸ばしながら言った。
テーブルの上では、昨夜マーリンが大麦の中から救出した黒ウサギがサラダボールに顔を突っ込み、レタスをおいしそうにかじっている。
コルトは新聞を伸ばし終えると、黒ウサギをつんつんと突いた。黒ウサギはレタスに夢中だ。
寝ぼけ眼のマーリンは、料理用ストーブでスープを温めていたが、あくびをかみ殺しながらコルトに突かれている黒ウサギを抱きかかえ「ダメよ」とその頭を撫でた。
「ごめんなさいパパ。自分たちが食べる大麦の籠の中に入っていたからって、みんなこの子を食べようとするから……」
「かまわんよ」
コルトはサラダボウルからニンジンをつまむと、黒ウサギの鼻先へ持って行った。
「レタスは水分が多いから、腹を壊すぞ、まめつぶ。ウサギにはニンジンがお似合いだ」
だが黒ウサギは、オマケのようにくっついているその小さなピンク色の鼻をひくひくさせるだけで、ニンジンには手をつけなかった。がっかりとするコルトを横目に、後ろ足で耳の後ろを掻いている。ちりちりと首についた鈴が揺れる。
「つれないまめつぶウサギさん……」
心底残念そうに言う父の姿を見て、マーリンは笑った。コルトは白髪交じりの口ひげの下へとニンジンを滑らせ食べる。不味い、不味いと呟きながら。
「この子、一体どこから来たのかしら。最近ウサギを飼い始めた家、パパ知ってる?」
新聞を広げる手を止めて、コルトは顎髭を撫でて考え始めた。
「いや、聞かん。不思議なくらい聞かんなぁ」
「そうよね? 不思議なくらい聞かない」
「そうさ、不思議なくらいな……」
マーリンとコルトは口を揃え、不思議すぎると天井を仰いだ。
マーリンたち一家が住むこの街、ベーグルノーズは、ひどく閉鎖的な街である。
街の外からの情報はほとんど入ってこない。街に一軒の新聞屋は機能しておらず、新聞は街の外から取り寄せるものの、その内容は街の上層部が切り取り、新聞には所々穴が開いている。外の世界の様子を知られると、自分たちの都合が悪いからだ。この街が外界から、時代から取り残され、政治も生活も後れを取っていることを、誰もが知っているのに、隠そうとする。
そんな状況のため、毎朝届けられる新聞は三ヶ月遅れ、穴あき、しわくちゃだ。
なんの面白みも無い情報を、暇つぶしに読むしかない。
そんな街だ。皆退屈からか、ちょっとした出来事も大げさに騒ぎ立てる癖があった。どんなことでも街の人からすれば新鮮な情報、大スクープだ。それがたとえ公園の野良猫が風邪を引いただけでも、紳士服店で始まった夫婦げんかの勝敗でも。噂話は噂話は自ら望んでいなくても耳に入ってくる。
干渉されることを嫌う母、マリアは、まるで監視されているようだと言うのが口癖で、街の人間は有能なスパイねと、噂話が耳に入るたびいつも笑っていた。
そんなスパイたちの情報に、ウサギ、という単語はなかったはず。
おかしいな、と、コルトが首を傾げた。
「野ウサギが自分で首にリボンなんてつけないでしょう? どこかから逃げ出して来たのかなって、最初はおもったのだけれど……」
「逃げてもすぐ捕まりそうだしな」
コルトはマーリンの膝の上でくつろぐ黒ウサギを見て言った。
「野ウサギ捕まえて、街の子供らがこっそり飼っていたのかもしれんなぁ……もしかすると、珍しくうちが情報発信元になったのかもしれん」
ストーブで温めていたスープを取り分けていたマーリンが手を止め、面白そうだと笑うじコルトをじろりと見た。
「パパ、わたし隠すつもりは無いけど、街の人たちと仲良く伝言ゲームするつもりもないわよ?」
コルトは不機嫌になったマーリンから身を守るように穴あきの新聞で顔をかくし、わかっているさ。と頷いた。
「よおくわかっているさ。ただそのまめつぶウサギさんを、誰にも見つからないように飼うのは難しいんじゃないか?」
マーリンからスープを受け取ると、コルトはマーリンに「マリアには言ったか?」と問うた。
「ママにはさっき起きてきたときに話をしたわ。店には連れて行ってはダメ、飼い主がいるなら見つかるまで飼ってもいいし、いないなら」
「食ってもいい、と?」
コルトはマーリンの言葉を遮ると、ナイフとフォークを握りしめて、にやりと笑った。
「ウサギは美味いらしいぞ」
「パパ!」
マーリンは慌てて黒ウサギをコルトから離した。
「馬鹿なこと言っていないで、早く市場に行ったらいいんじゃない? きっと愛しのマリア様が、今頃拳に息はいて待ってるわよ」
小さな子どもをたしなめるようにそう言うと、マーリンは使っていないボロの鉄鍋に黒ウサギを隠した。
「それじゃあ逆に手間を省いているようじゃないか」
コルトは棚の上に鉄鍋を置こうと背伸びするマーリンにそう言い、髭の下で笑った。
「さてさて、やれやれ。あまり待たせると、本当に叱られてしまうからな」
コルトは腕時計に目をやると、立ち上がり、椅子の背にかけてあったコートを羽織った。
時刻は午前四時を回っていた。
「女は怒らせるもんじゃない」
コルトは玄関で毛糸の帽子を深くかぶると、穴あき新聞を手に市場へと買い出しに出かけて行った。
「自分がいつも、叱られるようなことするからじゃない」
マーリンはコルトを玄関先まで見送ると、台所に戻り、食べ終わった食器を片付け始めた。昨夜の宴の後片付けも残っている。
温かい毛布に包まるのはまだ先だわ、と、マーリンはあくびをかみ殺し、腕まくりをして冷たい水の中へ両手を突っ込み皿を洗い始めた。
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