record:02.ちいさな幽霊

 2.

 翌日の朝。カーテンに光を遮られた部屋で目を覚ますと、ヨーダはフードをかぶり直し、昨夜机に置いた夕食のパンを手に取った。パンはもうぱさぱさに乾いている。

 そのパンを手にしたまま部屋を出て階段を下り、裏口の扉から裏庭へ行く。そしてそこに集まっている鳩たちにパンをちぎり、与えた。

「鳩にばかり食わせとらんで、自分も食わねば大きくならんぞ」

 そんな声がして、ふと振り向くと、背後に立っていたコルトが小さな紙袋を自分の前に差し出した。

「昼飯だ。どうせまた丘に行くんだろう?」

 ヨーダは返事をせず、また、紙袋も受け取らなかった。

 最後のひとちぎりになったパンを鳩に放りなげ、コルトの横を無言ですり抜ける。

「……そういえば、最近あの丘の教会で幽霊が出るって噂になってるのう。街の子どもらが、肝試しするって昨日騒いでいた。お前も一緒に行ってみたらどうだ?」

 そんなコルトの言葉を無視して、ヨーダは玄関から家を出た。

 見上げた曇り空は、自分の内面と同じだ。

 胸の奥のわずかな光さえ、隠してしまう。

 わずかにあったのだ。母がいた頃は、自分にだって。この街の子どもたちと同じように、たとえ閉鎖的で外界から孤立したこの街に生きても、外の世界に夢を見て、将来の夢を語る。どんな些細なことだって、泣いたり、笑ったり、怒ったり。

 気象のように変わる感情の変化が、雲に隠れたままになっている。

 雲の裏側でまだ光があるのかさえ、もうわからないし、考えるのも億劫だ。

 とにかくひとりになりたくて、大通りを歩き、丘を目指す。

 街外れの丘は、閉鎖された牧場と廃墟になった教会しかない。好んで人が訪れるようなところではなかった。

 街行く人々は、今日も自分と目を合わせない。

 一歩一歩進むたびに、心が冷えていく。

 今日も何も変わらない。

 丘の上にたどり着くと、ヨーダは昨日と同じ樹木の根元に腰を下ろした。

 紅葉したその樹木を見上げると、葉の一枚一枚が、曇り空さえ燃やしてしまいそうに見えた。

 そのまま寝転んで、目を閉じる。風が木の葉を揺らす音だけが聞こえる。

 風の音だと、思った。

 けれど、また昨日と同じように、ぽつりと歌声が聴こえた。

 ぽつり、ぽつり。耳の中で露のように落ちる歌声は、まぶたの裏で水面に円を描き、広がる。

 

 

 心のありかを忘れてしまったの

 胸の奥には

 かつて自分を輝かせた光が

 空洞だけ残して 消えていった

 それはきっと 誰のせいでもないのでしょう

 なのにわたしは 誰かを責めるの

 憎しみにも似た 何かで

 この空洞を 埋めるため

 

 

 水面に広がるのは、綺麗な水の輪のようで、けれど火花のようだった。

 水の上で爆ぜる、小さな火花。

 綺羅と強く光り、一瞬で消えていく。

 耳の奥から、まぶたの裏へ。輝いた火花はやがて目頭に熱をともす。

 

 

 わたしが失ったものは 何?

 何も変わらず 微笑むあなたの

 心はそこにあるのに

 わたしは――……

 

 

 火花のような歌声が、ぴたりと止んだ。

 ヨーダは目を開き、起き上がる。そうして自分の頬を濡らす涙に驚いた。

 指で涙を拭うと、目頭に熱を感じた。なんだろう、自分は何故泣いているのだろうか。

 そこに、まるでガラスをひっかいたような叫び声が聞こえた。

 驚いて声のした方を見ると、少し離れたところある廃教会から子どもが五人、転がるように飛び出して走り去っていった。

 なんだあれは。ヨーダは立ち上がり、廃教会へと向かった。そういえばコルトが言っていた。街の子どもたちが、あの廃教会に肝試しに行くと。

 こんな朝早くに、幽霊なんていないだろ。ヨーダは子どもたちが去ったあと、廃教会の中へ足を踏み入れた。

 薄暗く、かび臭い礼拝堂。煤けた石膏像の横を通り過ぎ、ステンドグラスの窓を見上げる。

 この絵は、エステルだ。ヨーダはこの絵に描かれた子どもを知っている。

 この世界の人々は、外界から閉ざされたこの街の住人も含め、生まれたときにエステルの洗礼を受ける。

 その洗礼とは、生まれたその日の夜に、西の窓からやってくるエステルという天使に光を授かることだ。

 エステルが生まれたばかりの赤子のまぶたに手をかざすと、水泡のような光が辺りを照らし、まぶたに星形のあざが三つ浮かび上がる。

 あざは一週間ほどで消えていく。この洗礼を受けないと、赤子は盲目になると云われている。

 エステルのステンドグラスを眺めながら、ヨーダはこの教会がまだ廃れる前も、あまり訪れた記憶がないと思った。

 というのも、この教会はヨーダが今より幼い頃に、神父が忽然と姿を消してしまったからだ。

 神父には跡継ぎがいなかったし、街は外界から新しく神父を呼ぶこともしなかった。

 その後、管理されることがなくなったこの教会は、あっという間に寂れ、今の廃教会となった。

 廃墟になった教会に足を運ぶほど、熱心な信者はこの街にいなかったのだろう。この周辺は他に、閉鎖された牧場しかない。

 ステンドグラスをぼんやり眺めていると、頭上で何か軋む音が聞こえた。

 ヨーダは礼拝堂から廊下に出て、二階へと続く階段を上がろうとして足を止めた。

 ぼう……と、階段の踊り場で白く小さな光の粒が現れ、消える。

 不思議と恐怖は感じなかった。もとより自分が、この街では幽霊のような存在なのだ。本当に幽霊がいるのなら、会ってみたいものだとヨーダは思った。

 軋む階段を上り、二階へたどり着くと、ほこりが舞う廊下を歩いた。蜘蛛の巣を払いのけ、奥へ奥へと進んでいく。

 すると、廊下の突き当たりにある窓のそばに、白い人影が見えた。薄暗い廃教会の中。その窓から差し込むわずかな光が、その白い人影を照らす。

 これが幽霊? ヨーダはその正体を見て、がっかりした。

 薄汚れた白いテーブルクロスが、洋裁工房にあるようなトルソーに引っかかっていただけだった。

 ヨーダはそのテーブルクロスをトルソーから引き剥がし、それをかぶってため息をついた。

 やっぱり、幽霊なんていないのか。

 けれど、自分は幽霊に会って一体どうしようというのか。

 友達にでもなるつもりか? 馬鹿らしい。

 戻ろう。ヨーダはふと窓の外を見た。曇り空。今にも雨が降り出しそうだった。

 ――……カタン。

 背後で小さな音がした。ヨーダはとっさに振り向こうとして、それをやめた。

 窓に映る自分の左後方に、白い人影が見えた。

 まさか、本当に幽霊? ヨーダはゆっくりと振り返った。白い人影は、確かに存在し、そこにいる――……

「……に」

「……に?」

「にぎゃーーーーーー!!」

 叫んだのは、幽霊の方だった。

 しっぽを踏まれた猫のようなその叫び声に驚き、ヨーダは後頭部を窓にぶつけた。

 その音を合図に、幽霊は廊下を走り出した。ヨーダはそれを追いかける。

 何で俺は、幽霊なんて追いかけているんだ?

 いとも簡単に、幽霊は捕まった。階段の手前で、自らすっころんだのだ。

 そもそもこいつ、幽霊じゃないだろ。あんな間抜けな叫び声、聞いたことがない。

 ヨーダは階段前でうずくまる幽霊の正体をあばいてやろうと、幽霊のかぶっている白い布を引き剥がしにかかった。

 けれど幽霊は、必死でヨーダの手を振り払い、それを阻止した。この幽霊、なかなか力が強い。

 再び白い布を引っ張るヨーダの手を、幽霊がひっかく。

「いてぇな! このやろう!」

 ヨーダは自分の手をひっかいた幽霊の手を掴んだ。その手の感触が、ざらり、としていたので、一瞬ひるんでしまった。

 その隙を幽霊は見逃さなかった。勢いよく手を振りほどき、それからヨーダの顔面に頭突きを喰らわせてきたのだ。

 ヨーダが顔を両手で覆い、後ろにふらりと倒れそうになると、幽霊は頭を抱えヨーダに覆い被さるように倒れてきた。

「……おまえ! ふっざけんなよ!」

 ヨーダは幽霊のかぶっている白い布を引き剥がした。どうせ街の子どもの誰かが、いたずらでやっていることだろう。

 そう思っていたヨーダは、引き剥がした白い布の下に見た白髪に驚いた。

 キシキシと痛んだ、ボサボサの髪。そして頭を抱えている荒れた手と、傷と痣だらけの細い腕。

 こんなやつ、知らない……。

「おまえ、誰?」

 頭を抱えてうずくまる幽霊は、顔を上げることなく、ただ震えていた。

 そして小さな鈴のような声で、

「ごめんなさい……ごめんなさい……」

 と、つぶやくように言った。

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