その街の大通りはいつも閑散としており、長い距離を置いて点々と並ぶガス灯が地面の煉瓦を照らしていた。
そんな大通りにある喫茶店”カルペディエム”に、深夜零時を回ると毎夜ドア横のランタンに火を灯す少女がいる。
栗色のポンチョの下に、白のエプロンドレスを覗かせて。
そのウエイトレス姿の少女は手際よくランタンに火を灯し、静かに店の中へと戻っていった。
ランタンの横に置いてある大麦の入ったカゴだけが、灯りに照らされて浮かび上がる。
それから幾分の間もなく、涼やかなベルの音が夜の街に鳴り響いた。
店内で椅子を並べていた少女は、中央テーブルの上に置かれている白い陶器のベルを手に取り、外から聞こえてくるベルの音に答えるよう鳴らした。
それからすべてのテーブルに置かれたロウソクに火を灯すと、ポンチョを外し、ドアの前に立った。
少女は静かにドアを開き、闇夜に向かって笑顔で挨拶をする。
そうしてゆっくり顔を上げると、タキシード姿の老人が闇の中から姿を現した。
「今宵は二十八名。の、はずだったのだが……来る途中で一名拾ってね。席は足りるかねマーリン?」
「ご安心ください。お席はいつも十分にご用意しておりますから」
少女、マーリンがそう答えると、老人は闇夜に振り返り頷いた。
その背後には無数の小さな光が跳ね、一列に並んでいた。
「どうぞ中へ」
マーリンがそう促すと、行儀良く並んでいた光たちが次々ドアをくぐり、店の中へと入っていった。
光はドアをくぐると、本来の姿を表していく。
羽根の生えた少年少女、しわくちゃ顔のこびと、二足歩行の動物たち。彼らは本来の姿である妖精に戻ると、店の奥から順番に着席していった。
「で、残りの一名様というのは?」
マーリンが老人に尋ねると、老人は足下を指さした。そこには体中泥まみれのこびとが、うつ伏せの状態で倒れている。
マーリンは慌ててそのこびとを起き上がらせ、持っていたハンカチで顔の泥を拭った。
「とりあえず、中へどうぞ」
そう言ってマーリンは老人を店内に招き入れ、自分は泥まみれのこびとと一緒に店に入り、ドアの鍵をかけた。
「ちょっとマーリン! その子! ホブゴブリンをお店の中に入れないでよ!」
マーリンたちが店に入るなり、席に着いていたピクシーの少女が叫んだ。
何事かと、店に集まった妖精たちが一斉にマーリンを見やる。
「意地悪なこと言わないでミン。この子も大事なお客様よ。こんなに泥だらけで倒れていたのだから、もう何日もごはん食べてないのよね?」
マーリンはホブゴブリンの顔をハンカチで拭きながら、彼にそう問うた。ホブゴブリンはマーリンのエプロンにしがみつき、小さく頷く。
その反応を見たミンは「嘘よ!」と叫んだ。
「そのホブゴブリンはね、この前ガルウイングさんちの馬小屋に忍び込んで、子馬からフォイゾンを抜き取ろうとしてたんだから! ルール違反じゃない!」
スプーンほどの大きさしかないミンは、両腕を上下に何度も振り、全身を使ってマーリンに訴えた。
ミンの言っているフォイゾンというのは、食べ物の味を抽出したエッセンスのことで、妖精の食べ物の一つだ。
味を抽出した食べ物は当然無味になる。そしてそれは、生きている動物からも抽出することが出来る。
しかし、生きている動物からフォイゾンを抽出した場合、その生き物の魂までも抜き取ってしまう。マーリンは実際、街の外れにある小さな牧場で、フォイゾン抽出の被害に遭った羊を目にしたことがあった。
うつろな目で人形のように硬直し、横倒しになっていた羊の姿は不気味で、こんな姿を見るのはごめんだとその時マーリンは思った。
そこで、幼い頃から妖精の姿を見ることが出来たマーリンは、妖精の住む森へと足を運び、街の生き物からむやみにフォイゾンを抽出するのをやめてくれないかと頼んだのだった。
その時の話し合いで、マーリンは妖精たちの食料が年々不足していることを知った。マーリンの住む街、ベーグルノーズは子どもが少なく、大人も妖精を信じなくなっていたため妖精に食べ物を与えようという風習自体が無くなっていたのだ。
昔は自分たちに食べ物を与えてくれる人間が多かったというのに、今じゃあくまで自分たちはおとぎ話の住人。そう嘆く妖精たちをなんとか助けてあげられないだろうかと、マーリンは喫茶店の主人である父に相談し、協力してもらうことにしたのだ。
結果。ここ喫茶カルペディエムは、昼は人間相手の普通の喫茶店、けれど深夜零時から三時までは妖精たち相手の喫茶店として解放することになった。
深夜三時間だけのマスター。それがマーリンだった。
そして食べ物を与える代わりに、この街の生き物からフォイゾンを抽出しないという約束を妖精たちと結んだ。
「そのホブゴブリンが、子馬に蹴られて馬小屋の外に放り出されてたのを、わたしは見たよ」
「愚かな計画は失敗に終わった」と、発声練習をしていたピクシーコーラス隊の一人が、体に似合わないバリトンでマーリンに告げた。
「この子初めて見る子だわ。きっとこの喫茶店のこと知らなかったのよ。だから今回は見逃すことにするわ」
マーリンのその言葉に、殆どの妖精たちは同意したが、ミンだけは変わらずに両手を上下に振り、抗議の意を表した。
「いいじゃないか。マスターがそう言うのだから」
妖精たちの食べこぼしを掃除していたパックが、その手を止めミンに言った。
ミンはふくれっ面でパックを睨み、それからテーブルにあったリンゴの芯をホブゴブリンに投げつけた。
すると芯はホブゴブリンのかぶっていたとんがり帽子をへこませ、今度は帽子が伸びをするように芯を跳ね返した。
そのまま天井近くまでとんだ芯は、パックの横で床掃除をしていたシルキーの頭に落ちた。シルキーは頭をさすりながら、ミンを睨みつける。
ミンとシルキーが睨み合っていると、ホブゴブリンがしがみついたままのマーリンが割って入って言った。
「喧嘩しないの。さあ、これを分けて仲直りしなさい」
マーリンは二人の間に焼きたてのアップルパイを一切れ置いた。アップルパイは皿の中央で甘い香りを放ち優雅に鎮座している。
「二人でひとつ、ね?」
マーリンがそう言うと、シルキーは背中の羽を震わせながら大きく頷き、アップルパイを切り分け口にほおばった。そんなシルキーを見ながら、ミンは「体の大きさが違うんだもの、仲良く半分はできないわよ」と不満げに呟いていた。
そうしてマーリンの手によりアップルパイが各テーブルに配られ、店の飾り時計が午前一時に差し掛かろうとしている頃。
ピクシーコーラス隊の美声が店内に響く中、マーリンはふと店のドアに目をやった。
店のドアベルが鳴ったような気がしたのだ。
背後で妖精王オーベロンが、せっかちな声で呼んでいる。マーリンは「少々お待ちください」とオーベロンに声をかけ、それからドアの前に立った。
妖精たちはいつも決まった時刻にしかやってこない。個性豊かでまとまりのないものばかりだが、皆約束した時間だけはしっかり守って来てくれる。
それなのに、こんな時間に誰だろうか。マーリンはドアノブに手を置き考えた。不思議というか、少し気味が悪い。父を呼んだ方がいいだろうか。マーリンはドアノブを下ろせずにいた。
そこにパックがやってきて、どうしたのかとマーリンに聞いてきた。
「こんな時間に、誰も来やしないよ! やめておこうよ!」
ドアベルの音が聞こえなかったかとパックに問うと、パックは箒をしがみつくように持ち、言った。不審者? いやいや、おばけかも。いつの間にか集まったピクシー立ちが、パックの耳元でささやいた。
「パックを怖がらせるのはやめなさい。いいわ。見てくる」
マーリンは深呼吸してドアノブを握り、下ろした。
パックを怖がらせるのは……と言ったが、本当はパックより自分の方が怖がっている。幽霊? 不審者? それとも?
マーリンは幽霊よりも人間の方が厄介だわと思った。カルペディエムが深夜妖精たちの集まる場所だということは、街の人々も知っている。マーリンが妖精たちと約束を結んだおかげで家畜の被害が無くなったのだから、知らないはずがなかった。
けれど、知っているからといって、皆がそれを歓迎しているわけでもない。気味が悪いと言う人もいたし、店に近づかなくなった人もいる。
妖精の姿を見たり、声を聞くのは、もうこの街にはマーリンたち一家しかいない。ということは、ピクシーコーラス隊の苦情というわけでもないだろう。なら街の人ではないわ。マーリンはドアをゆっくりと押した。
マーリンの頭上で、ドアベルが鳴り響く。先ほど聞こえた音は、この音じゃない。
マーリンは真っ暗な大通りを見渡し、周囲に人の気配が無いか確認した。
人の気配は無い。それなら幽霊かしら? 幽霊は別に怖くないわと、マーリンは笑った。普段から人には見えない物を見ているのだから、今さら幽霊なんて怖くなかった。幽霊と一緒にしたら、妖精たちは怒るだろうけど。
何も無かった。パックにそう伝えると、パックは深く息を吐いた。どうやらずっと息を止めていたらしい。マーリンはもう一度大通りを見やり、ドアを閉めようとした。
と、その時。
閉めようとしたドアの裏から、小さな鈴の音が聞こえた。
今度は確かだ。
マーリンは外へと足を踏み出し、そのままドアを後ろ手で閉めると、自分の右足元を見た。
「うさぎ、さん?」
足下に、首に紅いリボンをした黒いウサギがいた。
大麦の入った籠の中で、ひっくり返りばたばたともがいている。
マーリンはその場にしゃがみ、確認するように黒ウサギを見た。闇夜のように黒い毛色の小さなウサギ。リボンについた鈴が、もがくたびに揺れ、うっすらと暗い大通りに響いていた。
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