あなたを忘れることは
自分を否定すること
長い長い時が流れて
いずれこの世界が
あなたを拒絶し
忘れようとも
わたしの世界に色をくれた
あなたの優しさを
わたしは決して
忘れない
そよ風が、木々の枝を静かに揺らし、紅く色づいた葉を落とす。
はらはら、はらはら。と、一枚ずつ。
わずかに異なる色の葉が落ちる様子を、その蒼い瞳にとどめると、ヨーダはまだ夢の中にいるような気持ちになった。
固い土の上で寝ていたせいか、起き上がると、首と背中が痛んだ。
とても長い夢を見ていたような気がする。
内容はあまり覚えていないが、夢の中で誰かが歌っていた。
その声が、ぼんやりと耳の奥に残っているような気がした。
その声はとても心地が良く、けれどメロディはとても切なかった。
どこかで聴いた歌が、頭に残っていたのかな?
ヨーダはおもいきり伸びをする。そうして立ち上がり、丘の上から街並みを見下ろした。
赤いレンガ造りの家々が立ち並ぶ、世界から孤立した小さな街。
戦時中に落とされた爆弾のせいで、街の中心部が枯渇した湖のようにえぐれている。
その様子から、外部の人間はこの街のことを<ドーナツ街>や<ベーグル街>と呼ぶらしい。
街の正式名称も、皮肉なことに戦前から<ベーグルノーズ>という。
ヨーダは服のフードを深くかぶり、ズボンのポケットから懐中時計を取り出すと、時刻を確認して丘を後にした。
1
懐中時計の示す時刻は、午後四時半だった。
丘をくだり、林を抜けて、ヨーダは陽が落ち始め薄暗くなった街の大通りを走る。
均等に並んだガス灯が、自分を追いかけるように灯っていく。
そんな大通りの真ん中で、ヨーダは足を止めた。
そこには、街に一軒しかない喫茶店がある。
ドアの横に立てかけてある看板には「カルペディエム」の文字と、白いバラの花が描かれている。
ヨーダは店の看板横にあるランタンに火を灯した。
「……それでね、私がいくらやめなさいって言ってもきかないの。もう、どうしたらいいのか……」
ヨーダが店の中に入ると、祖父のコルトと話していた若い女性が振り返った。
「こんにちは」
灰色の長い髪とまつげ、弧を描く美しい唇が印象的な女性だ。最近頻繁に店を訪れ、店主である祖父に相談事を持ち込んでくる。彼女はヨーダの両親の古い友人だという。
ヨーダは軽く会釈をすると、その女性の横を通り、店の奥へと足を進めた。
すると、何かにフードを引っ張られた。ヨーダはそれを振り払おうとする。
「ほうら、うちも似たようなものさ。この通り」
振り返ると、コルトがフードの端を掴んでいた。ヨーダはコルトを睨み付けながら、その手を振り払った。
そうして店の奥へ引っ込んだヨーダは、自宅の洗面所へと向かった。
水道の蛇口を大きくひねり、勢いよく流れる水の中に手を突っ込んで洗い、それから顔を洗う。
洗面台の横に置かれたタオルで顔を拭いて、正面の丸い鏡を見た。
そこに映っているのは、カラスのように真っ黒な髪と海のように蒼い瞳を持つ、ひどく不機嫌そうな少年。
ヨーダは、この蒼い瞳が大嫌いだった。
この街よりずっとずっと遠く。
海を渡ったその先に、とある少数民族が住む村があった。
その民族の名は<アルト>という。
色鮮やかな刺繍が特徴の民族衣装をまとい、ヨーダと同じように黒い髪と蒼い瞳を持つ。 その蒼い瞳に、アルトの秘密があった。
ヨーダからすればただの蒼い瞳であるそれは、人々から<真実の瞳>と呼ばれていた。
その蒼い瞳は、見る側の心に問題があると蒼い瞳ではなく、違った色を見せる。
それはとても恐ろしく、深く暗い闇の色だという。
たとえば、嘘をついたり、隠し事をしたり、人を憎んだり。そういった負の感情を持つ者がアルトの瞳を見ると、その暗い瞳は幻覚を見せたりもする。そうして精神を破壊していく。
そんな真実の瞳を持つアルト民族は、世界中から嫌われていた。数年前には住む村を焼かれているらしい。生き延びたアルトたちは今、世界の片隅でひっそりと人目を忍んで生きているという。
ヨーダはタオルに顔をうずめると、当たり前だ、と呟いた。
どこの世界に、嘘をついたり、隠し事をしない人間がいるものか。
人を憎むことだって、生きていれば一度くらいあるだろう。
そんな当たり前の感情を、無条件に、さも悪いことのように裁いては、人から嫌われて当然だ。
父がアルトの民だった。
けれどヨーダは、父のことをよく知らない。
父は、ヨーダが生まれる前に死んだ。母は父の死後、十五の歳でヨーダを産んだ。
母は父のことを多く語らなかったが、この瞳を決して隠して生きるなとヨーダに言い聞かせていた。
三年前、ヨーダを置いて行方知れずになったその日の朝まで。毎日だ。
突然途切れてしまったその言葉を、これからどう受け止めればいいのか。ヨーダにはそれがわからなかった。
七歳まで<愛情を持って自分に接してくれた母の言葉>であり、けれど<あっけなく自分をおいてどこかへ行ってしまった母の言葉>でもある。
途切れた言葉を受け継いだのは、祖父のコルトだった。
コルトはヨーダをカルペディエムの客前に引っ張り出し、たびたび店番をさせた。
ヨーダが店番をすると、途端に客足は遠のいた。
それでも、コルトはヨーダを店の奥から引っ張り出して、レジ前に座らせた。
母のように口に出して言うわけではなかったが、ヨーダが顔を隠すことを許さない。
だからそういうことだろう。と、ヨーダは理解していた。
誰も訪れない店の中。ただぼんやりと店のショーウィンドウを見つめ、行き交う人々を眺めていた。
賑やかに通り過ぎる、自分と同じ年頃の子どもたちを見ていると、ひとりぼっちが強調される気がした。
まるで、自分のいる空間だけが別世界だ。
きっと、みんな自分の事が見えていないに違いない。
自分は確かにこの世界に存在しているのに。母も自分が見えなくなってしまったから、自分をおいていったのかな。この街の、この世界の、幽霊みたいな自分に愛想を尽かして。
そう考えると、妙に納得できたが、心は急速に冷えていった。
顔を拭いてフードを再びかぶると、ヨーダは自室へと向かった。
「待ちなさいヨーダ。ちょいと話がある」
背後からそう呼び止められて、ヨーダは足を止めた。
振り向くとコルトが手招きをしていたが、ヨーダはその場から動かなかった。
「今日はもう店じまいにして、これからエルの家に行ってくるんだが、お前も一緒に行かないかね?」
コルトはサンタクロースのような白髭をなでつけながら、ヨーダに言った。
何故自分が? ヨーダは返事をせず黙っていた。
「……なぁに、無理にとは言わんよ。ただお前なら、何かわかるんじゃないかと思っただけだ。じゃあわしは行くから、戸締まりをしておいてくれ。夕飯も先に食べてくれ」
そう言って、コルトは店の入り口から出ていった。ヨーダは入り口のランタンの火を消し、ドアの鍵を閉める。それから店内の灯りを消した。
先ほどまで店にいた灰色の髪の女性は、名をエルという。
エルには、ヨーダと同じ年頃の子どもがいるが、ヨーダはまだその子どもに会ったことがなかった。
この世界にただ一人。風を司る魔法使いだというその子どもは、希少価値の高さからキュリカという小さな城の中で大事に育てられているらしい。
コルトは、カルペディエムの店主でもあり、この街にたったひとりの医者でもある。
そんなコルトのもとには、時折街の住人がやってきて、様々な相談事をしていく。
その殆どが、自分たちで解決できるような事柄なのだが、内容云々より、とにかく誰かに聞いてほしい。ということなのだろう。
コルトが用意していった夕食を二階の自室に運びながら、ヨーダはそんなことを考えていた。
部屋に入り、窓際の机に食事を置く。
窓の外を見やると、夜空に幾つもの星が輝いている。
そんな星の輝きさえ、煩わしさを感じてしまう。
ヨーダは窓のカーテンを静かに閉めた。
夕食をそのままに、暗い部屋のベッドに横たわる。
ヨーダはそっと目を閉じた。光るもの、色づくもの。そういったものを見ていると、自分だけが色あせていくように感じる。
いや、もとより自分に色なんてないのだろう。
閉じたまぶたの裏で、今日丘の上で見た紅葉が揺らぐ。夢の中で聴いた歌声が、まるで水面に露が落ちて円を描き広がるように響く。
ヨーダはその光景に不安を感じながら、眠りについた。
耳に残っていた歌声は、霧の向こうへと隠れてしまったようだった。
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